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2011年6月

2011年6月30日 (木)

今日は一日PTA

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 朝から夕方まで
四條畷西中学校PTAの
会員研修でした。

 研修先は府の施設である
津波・高潮ステーションです。
工夫をこらした展示で
行かれる事をお勧めします。
 その展示の一つですが
2種類の碑文があり
それは、被害者がでたものと
出なかったものです。
その内容を聞くだけでも
値打ちがあります。

Photo_2
 ちなみに被害者がでた方の
碑文の最後の個所を
載せておきます。
「・・・心ある人は
 碑文が読みやすいように
 時々墨を入れて、
 伝えていってほしい。」

 それが終われば神戸方面。
ホテルでランチバイキングに
アウトレットで買い物です。
私は炎天下、
明石海峡を眺めながら
久々にゆっくりさせて頂きました。

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 そして、夜は
市PTAのソフトバレー
審判講習会。

 行ってきましたよ、
砂から上り坂だけの
四條畷中学校まで自転車で。

 本番の試合には
出ないのですが
何故か練習試合をするはめに。

 エアコンのない体育館。
汗びっしょりで
久しぶりにスポーツしました。

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2011年6月29日 (水)

国境の南、・・・久しぶりの読書

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 いつブログを書いているのか?
実は、書くのって
夜中が一番多いかも知れません。
で、次の日見直してアップ、
そんな感じです。

 今日は読書の事など。
文庫本を読んだのは
一年ぶりかも知れません。
数年前の
活字に飢えていた頃と違って
読書量は急激に落ちています。

 読んだのは、村上春樹さんの
「国境の南、太陽の西」で、1992年の作品です。

 読み始めるとすぐに小説の中に引き込まれ
主人公として本の中を彷徨いました。
いろいろ考えさせられましたが、好きな小説の一つとなりました。
たぶん、ノルウェーの森より良かったと思います。

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2011年6月28日 (火)

いつもの本が出来ました

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 毎年、ブログの内容を
そのまま製本しています。
・・・って話を
毎年書いていますヾ(-_-*) オイオイ

 最初の年度のみ違うのですが
4月1日から3月31日を
一冊としており、
今回で5冊となりました。

 誰かに読んで頂くとか
そういうものではなく
単に私の日記帳的なもので
昨年の行事予定を調べる時とか
結構重宝しています。

 いつまで続くのか私自身にもわかりませんが
市民の皆様に負託を受けている限り書き続けたいと思っています。
核心に迫った内容を公開出来るようなブログでもなく
面白味に欠けるとは思いますが
今後とも宜しくお願いします<(_ _)>

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2011年6月27日 (月)

ビートルズ リマスター

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 ビートルズのアルバムが
1987年に初CD化され、
その後、最も原音に近い
サウンドを目指すこと4年。

 そのアルバムが
初デジタル・リマスターとして
2009年に販売されました。

 当時は相当な話題で
どれだけ音質が違うのか
自分のオーディオで
聴きたかったのを覚えています。

Img_1273
 そういう事も
すでに忘れていたのですが
先輩よりその新品のBOXが
破格値でオークションに
出品されているから買え(笑)
と、教えて頂きました。

 日本版は未だに3万前後で
販売されているのですが、
4,000円にプラスして
海外からの送料2,000円、
合計6,000円で
手にすることが出来ました。

 今はまだ数枚のアルバムを聴いただけですが
半世紀近く経つのに、全く色あせていない
The Beatlesの曲とリマスターの技術に脱帽です。

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2011年6月26日 (日)

日曜日も行事に参加です

Img_1275
 今日は9時半から
私の住む砂地区の
自主防災の訓練でした。
独居老人を対象とした避難訓練で
実際に独居老人の方や
組長さんが加わってと
小規模とはいえ
きっちりした訓練に感心しました。

 同じ地区に住む吉田市議会議員と、
橋本府議会議員、
大阪府警からも参加をして頂きました。

 画像は最後に参加者で食べた
チキンラーメンの非常食バージョンです。

Img_1276
 そして、午後1時半からは
男女共同参画週間記念事業。

 故岡八郎さんの娘である
市岡裕子さんの
トーク&コンサートでした。

 講演も素晴らしく、
また、本場仕込みの
ゴスペルは圧巻で最高でした。

 撮影は禁止でしたので、アンコール前の舞台です。

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2011年6月25日 (土)

愛犬と淀川河川敷

Polo1s
 朝から写真を撮りに
暑い日射しの中、
淀川河川敷へ行ってきました。
被写体は、いつもの野鳥でなく
愛犬です。

 犬種は、ウエスト ハイランド
ホワイト テリアと長い名前で
略してウエスティと
一般的には呼ばれています。
Polo2s
 そして、愛犬の名前は
Volkswagen Polo Classic
略してポロです ヾ(-_-*) オイオイ

 ブサイクな子犬ですが
大人になるにつれて可愛くなる
・・・はずです。

 撮りたかったのは
芝生を走っているところ。
出来ればボディが地面から離れているところ、でした。
望遠レンズで何度シャッター切ってもピントはずれるわ難しいですね。
また、リベンジしなければなりません。

 さて、昼から7月号のチラシを印刷して、夜は市政について・・・。
夜、良い話が聞けるのでしょうか、イヤな話でなければ良いのですが。

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2011年6月19日 (日)

娘の演奏を聴きに

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 昨夜は、地元中学校で
吹奏楽部に入っている次女と
二人だけで京大吹奏楽部所属の
長女の演奏を聴きに行きました。

 京大吹奏楽部に
所属しているからと言って
京大生ではありません(^_^ゞ
当日配布のパンフレットを見ますと、
サックスパートのパートリーダーをうちの娘がしていました。
他大学所属の学生に対して京大は関大、もとい、寛大ですね。

 画像は、会場内が撮影禁止でしたので
会場から開演までの間、
ロビーでサックス4重奏をしていた娘をあげています(^_^ゞ

 演奏は、さすがに大学生です。
今までも中学高校と、何十回も吹奏楽部の演奏は聴いてきましたが
レベルの違いに圧倒され、感動。
週末を良い音楽で過ごせたことは、贅沢な時間の使い方かも知れませんね。

 会場は1000人レベルで、それほど大きくなかったのですが、
ステージも広く、客席に車椅子スペースもあり、
特に音響は本市のホールと比べ物になりませんでした。
市として取組む順序はあるでしょうが
ホールの改善は必ずしなければなりません。

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2011年6月17日 (金)

新聞の必要性

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 毎朝、朝食の時に
朝刊を読むのが習慣で
何十年と続けています。

 しかし、この頃
ネットからの情報が早く
新聞を読みながら
知っている記事ばかり。

 最新の情報を伝える、
そういう点では
ネット社会から
遅れてしまうのは
仕方ないのかも知れません。
しかし、そこが一番重要だったはず。
Photo_2
 いつも持ち歩いている
iPhoneで産經新聞は
毎日無料で全て読めますし、
フジサンケイビジネスアイも
4ページですが
同時に読む事が出来ます。

 となれば、私にとって
どれだけ新聞が必要なのか。

 産經新聞のiPhone版は
東京で発行している内容ですので
北河内や近畿圏の情報を
知るがために、
つまり、議員であるがために
購読している気がしています。

 新聞業界も厳しい時代ですね。

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2011年6月16日 (木)

恐るべし天満の夜

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 昨夜は、プチ同窓会的な飲み会。
JR天満駅へ7時に集合し
商店街らしき場所を通って
最初の画像の店へ。

 店の外にも客席があり、
その横には魚屋さんのように
所狭しと魚が並べてありました。
境港直送、だったかな
私の産まれた故郷の地名も
書かれており、
それだけでも嬉しかったのですが
価格には驚きました。

 半端な安さじゃありません!
 
 店に入れないで待っている人も多くなって来たので
お腹が一杯になったとろこで次の店へ。

Photo_3
 最初の店のすぐ近くにある
洒落た場所へ移動。
ここも外に客席があり
そこを陣取ってワイン。

 ボトル2本空けましたが
ここも半端な安さじゃありません。

 いったい天満の価格って?
 やっぱり利益は度外視なん?

 今日、天満の価格の話を
何人かの知人に聞いたところ
どの店に入っても
安い場所で有名だそうです。

 また、どの店を見ても外に客席を作っており、満席状態。
今の時期にアウトドアは最高ですね。

 こうして、天満のカルチャーショックな夜は楽しく更けて行きました。

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2011年6月13日 (月)

BUENA☆VISTA☆SOCIAL☆CLUB

Buenavistasocialclub
 私が以前より通っていた
レンタル店のTUTAYAが
今月10日にオープンした
ビバモール寝屋川に移転となり
日曜日に行ってきました。

 借りたのは、まさか
置いていると思わなかった
「ブエナ☆ビスタ☆
  ソシアル☆クラブ」です。

 せっかくですので
内容をWikipediaより
一部抜粋して以下に記します。

 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★
 ライ・クーダーがプロデュースした同名のアルバムが元となった。
このアルバムは大ヒットすると同時に、
キューバ国外にほとんど知られていなかった、
隠れた老ミュージシャンに再びスポットライトを浴びさせた。
それまで知られていなかったキューバの老ミュージシャン
一人一人の来歴、演奏・収録シーン、
キューバの光景を織り交ぜたドキュメンタリー映画となっている。
 ☆★☆★☆★☆★☆★☆

 感想は、音楽好きでライ・クーダー好きの私には感動でしたが
それ以外の方には、ストーリーもないのでしんどいかも知れませんね。

 しかし、ほんと、久々に映画をレンタルしましたが
TUTAYAの隣にユニクロはあきませんね。
映画を借りに行くだけの予定が服も買ってしまいました。
以前のTUTAYAならこんな事もなかったのですが。

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2011年6月11日 (土)

村上春樹さん「カタルーニャ国際賞」

 マイミクさんに教えて頂いた毎日新聞社のリンク先です。
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html
リンクだけを貼れば良いと思ったのですが、
新聞社のネット記事は、時間が経つと無くなる事が多いので
すごい量ですが、すべてここへ貼付けました。
著作権の問題もありますので、消さなければならないかも知れませんが
リスクをおってでも、皆さんに全文を読んで頂きたいのです。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 「非現実的な夢想家として」

 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。

 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。

 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。

 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。

 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。

 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。

 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。

 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。

 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)

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2011年6月 8日 (水)

中学生の職場体験

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 今朝の忍ケ丘の駅立ち、
四條畷中学校の生徒
数グループと立ち話を少し。

 今日は職場体験だそうです。
京阪電車へ行く生徒は
鉄道が好きなので
車庫へ入れるのが嬉しいと
目を輝かせて言っていました。
 他は、忍ケ丘保育所や
スーパーラッキーでした。

 良い体験が出来ればいいですね。

 昨日の夕方は、市PTA協議会として
中学校の教科書選定にかかわりました。
かかわったと言いましても
各学校のPTA会長、女性副会長が
選定される前の教科書を見て感想を書くだけです。
しかし、数多くの教科書を見れる機会もないので
皆さん真剣に読まれていました。

 雑談ですが
音楽の教科書の歴史的な個所に
ベートーベン、ショパンときて、
次はジョン・レノンには正直驚きましたが、
1980年12月8日に射殺されて、すでに30年を超えた事を考えれば
中学生にとっては何も疑問に感じない歴史の一コマなのでしょうね。

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2011年6月 7日 (火)

動物ダンボール大相撲 3

S_6
 まさかの3回シリーズ。
最後は淡々と (^_^ゞ

 優勝は、ワニ力士さん。
大人チームの優勝だけは
避ける事ができました(笑)

 優勝したチームには
谷口さんの描いたメダル。
実は僕も欲しかったです。

S_7
 そして、優勝カップは
東洋紙工の社長さんから
手渡されました。

 優勝カップは
当然ダンボールの手作りで
中には四條畷商店会の
「よしや」さんから
提供されましたお菓子が
ギッシリと詰まってます。

 優勝を逃した子ども達から
羨ましい〜視線を浴びながら、イベントは終了です。

Dj
 今回の楽しいイベントを
企画して頂いた
「キッカケ通信」さん
有難うございました。

 あっ、
この画像は載せとかないと。

 このイベントの模様は
USTREAMを使って
ライブ中継されました。
それらを仕切っていたのが
3枚目画像のブースです。

 現在も録画ですが
イベントの模様は配信されています。
http://www.ustream.tv/channel/kikkake-press-live

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2011年6月 6日 (月)

動物ダンボール大相撲 2

S_4
 さて、取り組み開始。
トーナメント形式です。

 私は審判で
土俵の回りを回りながら
盛り上げる為に
全ての試合に「物言い」を
付ける役どころでした。

 全力士の見守る中、
トップにサンタ力士の登場。
土俵を叩く子ども達も緊張気味です。

 ハッケヨイノコッタの行事の声。
サンタ力士は、テクニックでも相手を上回るかのように
相手がしっかり握っている両回しを、後ろに下がって切る作戦へ。
審判をしながら、さすがやな両回しをうまいこと切ったわ、と思っていたら
あろうことか、そのまま、相手力士に触れる事なく
後ろ向きにまっすぐ下がり土俵を割ってしまいました。

 私の中での優勝候補が、まさか初戦敗退とは。
それより、何て物言いを付ければ良いのか。
「ちょっとまった、力士にやる気が見えない」なんて
右手を挙げながら言葉を発してました ヾ(-_-*) オイオイ

S_5
 オヤツタイムを挟みながら
とうとう決勝戦。
実力通りのワニ力士さんと
キリン力士さんの対戦です。

 キリン力士さんは
唯一の大人チームで、
背が高くバランスも悪いので
まさか、決勝まで残るとは
思ってもいませんでした。
って言いますか、
大人チーム、勝ち残ったらあきませんやん(笑)

 しかし、これは勝負の世界。
このイベントにおいて八百長が一切なかったのは、
キリン力士が勝ち残ったことでも実証されたでしょう。

 ん?これは2回シリーズで終わるはずが。。。
申し訳ない、もう1回だけ付き合って下さ〜い。続くで〜す ヾ(-_-*) オイオイ

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2011年6月 5日 (日)

動物ダンボール大相撲 1

S
 6月4日、中野地区にある
東洋紙工株式会社において
「谷口智則さんと遊ぼう!
  動物ダンボール大相撲」
が行われ、
私も審判をする為に
手伝いに行ってきました。

 当日まで、
私は会議も出席せず、
準備すらしていないまま
会場へ乗り込みましたので
着いたとたんに衝撃でした。
入口の門はもちろんの事、
受付のカウンターから、椅子から、下駄箱から
何から何までダンボール、ただただ、これでもかとダダダダンボールです。

S_2
 まずはオープニング
セレモニーです。
参加されたお子様には
どうでも良いでしょうが
やはりきっちり行います。
何事も勉強ですしね。

 セレモニーを終了しますと、
すぐに谷口智則さんが
大きなダンボールに
サンタさんの力士を描きます。

 力士は全て谷口智則さんの
絵本に出てくるキャラなので
バランスを考えれば
大相撲マニアの私は(当然、子ども達には内緒です)、
サンタ力士が優勝するのを信じて疑いませんでした。

S_3
 子ども達もチームに分れ
下書きのあるダンボールに
好きな色を塗って
力士を完成させました。

 自分達のチームの力士が
一番強くてカッコいいと
子ども達は自信満々の笑みで
画像におさまっています。
それで良いのです(^o^)v

 と、ここまで書いて次回へ続くのである ヾ(-_-*) オイオイ

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朝、目覚めると・・・

 ♪朝、目覚めると、窓の外がいつもと違っていた。♪
と、書くと、これはザ・ディランIIの曲(古いなぁ〜)ですが、
今朝、目が覚めると目の前の景色が違っていました。

 一瞬、何がなんだかわかりませんでしたが、
よく見ますと私の家の1階にある事務所の床でした。
起き上がって事務所に置いていたパソコンを見ると
mixiのアプリを途中までしていたので
それをして、それから3階の自宅へ行こうと思っていたのでしょうか、
記憶がありません(^_^ゞ

 昨日は4時間睡眠の中、6時に起きて夜の1時過ぎまで慌ただしく行動をし、
今、二日酔いでもないので変な場所で寝るとは相当眠たかったのでしょう。

 思い出せば、
夜の6時から大東市にある「元」で西中PTAの実行委員会をし
その後、6時半から同じ場所で懇親会。
懇親会終了後、場所を「扇屋」へ移動して二次会。
ここまでは、普通の行動でした。

 二次会中に携帯の着歴を見ると何度もコールが。
また、すぐにかかってきたので電話に出ると
「塩梅」に居てるので“こっちへ来い”とのお誘い。
こっちはPTAやから抜けられない、“そっちから来い”との応酬。

 すると、忍小PTA会長、東小PTA会長、田原小PTA会長の
3名で本当に来られました。
北河内PTA協議会へ出向しているメンバーで
昨夜はその会議で、終わった後に「塩梅」だった様です。
同じ市内とはいえ、近場ではないのに嬉しかったです。
3名のPTA会長さん、有難うございました。

 ん?どうにも文章が繋がっていない様で、ここで終わっておきます<(_ _)>

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2011年6月 4日 (土)

今日も一日充実

S
 今日も早朝から活動。
7時半には友人に貸していた
資材を返してもらうため
自分の資材置場へ。
さすがに昨夜はDVDを観て
2時過ぎに寝たので
眠たかったです。

 そして、10時に
自転車で寝屋川市民会館へ。
党の12区幹事会です。
樽床代議士から、
昨日まで、そして今後の国政の流れを聞き、
北口府議に、維新の会の議会運営の話を聞きました。

 そして、1時過ぎから4時半頃まで画像のイベントに参加。
このイベントの模様は、次のブログにでも書きたいと思います。
久々に、子ども達の笑顔と真剣な眼差しを見たような気がします。
楽しかったです(^_^)

 さて、6時からPTAの実行委員会&懇親会。
PTA会長として、
懇親会を少しでも盛り上げなければ、と妙なプレッシャー。

 今日も一日、お疲れさんです、自分の身体 ヾ(-_-*) オイオイ

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2011年6月 3日 (金)

心機一転

Photo
 昨日、駅立ち再開。
結局、5月は駅立ちが
出来ませんでした。

 駅立ち再開にあたり
のぼりも新しくしました。
画像は入れず文字のみで
ラスターカラーを加えました。

 今日は10時から
会派代表者会議に出席し、
終了後に始まった
議会運営委員会の報告を
正副議長で受けたり
行政から別件で説明を受けたりし、
昼食抜きで1時まで会派会議をしました。

 しかし、今週も昼夜と
忙しい日々が続きますが、
勉強も大事と、会津若松市に頼んでいた本、
会津若松市議会編集「議会からの政策形成」が役所に届いていました。
今一番必要ですので、すぐに読み始めたいと思っています。

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2011年6月 1日 (水)

6月になりました

045
 5月、市議会に
皆さんの力で復帰させて
頂いたところ、大変忙しく
チラシも作成できずでした。
申し訳ございません。

 6月1日より
駅立ちの再開もしようと
思っていましたが
雨で中止とさせて頂きました。
さすがに雨の日は
チラシも濡れてしまいます。

045_2
 さて、6月号のチラシを
画像でアップさせて頂きます。

 内容は二項目です。
・「市議会役員改選結果」
   について
・「市議選挙結果」
   について

 画像以外では
私のHPからPDFが
ダウンロードできます。
http://nagahata.jp

 PDF直接は
http://nagahata.jp/pdf/Vol045.pdf

 是非、読んで下さい。

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